転勤族妻の苦悩。無意識に積みあげてきたジェンガが崩れた瞬間。
転勤族妻になってから、2度目の転勤。
今回の2度目の転勤は、なんだか、
一生懸命積み上げてきたジェンガが、小さな音を立てながら崩れていくような、
そんな感覚があった。
初めての転勤は2013年。
結婚して初めての転勤で、長く慣れ親しんだ関東を離れ、何の縁もゆかりもない、大阪へ。
フルタイムでやっていた仕事も辞めてきて、仕事も友人もいない、本当に0からのスタート。
それでも、知らない場所での新生活で、運動会のかけっこのスタートラインの前にいるような、いわゆる得体の知れないドキドキはあった。
早く子供がほしくて、でも年齢のせいもあるのか思うようにできず、不妊治療も始めた。
病院通いを優先したくて、フルタイムの仕事は選ばず、扶養内の契約社員扱いの仕事を始めた。
パートのような扱いだったし、始めて1年半で幸い子供を授かり、比較的早く退社することなった。
そんな立ち位置の職場だったけれど、退職後もLINEをしたり、たまに会って愚痴をこぼせたり、笑い合ったりできる「大切な先輩→友人」もできた。
第一子は男の子。
活発に更に輪をかけたような、好奇心だらけの超わんぱく男子。
家に閉じこもっているのも母子ともに限界がきて、1歳になった途端に、習い事を始めた。
特に英才教育したいとか、そういう思いからではない。
子供のためというより、自分のため。
子供と自分だけの酸素しかない狭い部屋から、少しちがう空気の中で、深く深呼吸したかっただけという理由。
リトミック、ベビー英会話、スイミング。
市が運営している、無料の短期の幼児サークルもいったりした。
身についているかとかは置いといて、大興奮しながら、幸いどれも楽しそうにやってくれた。
そこで、子供に友達を作ってあげれたら、と軽くは思っていたが、母親である私自身に知り合い、いわゆるママ友ができた。
当時は、自分に友達がほしいとはあまり考えてはなかったが、結果、子供よりも自分に先にできた。
素直に考えるとまだ赤ちゃんである子供に友達を作ってあげるためには、自分にママ友を作る方法が当たり前の道筋なのだろう。
この中でも、いつの間にかとても親しくなったママ友がいた。
お互いの子供のタイプは似ていなく、騒がしい我が子と対照的に、穏やかなタイプの男の子。
月齢は2ヶ月しか離れていなかったが、我が子が早生まれ故に、学年は異なった。
偶然、家がご近所さんだったこと。
こどもたちが背格好の似た大きめの男の子ということ。
親同士の年齢も1歳差ということも、距離を縮めてくれたきっかけにはなったのだろう。
途中、私が第2子出産のために、3ヶ月程里帰りした。
里帰りから戻ってきて、割とすぐに我が子が幼稚園に入学した。
そんな理由で、少し会わない期間もあり、会えない時間も増えた。
姉には、学年が違うから、幼稚園入ったら、会わなくなっちゃうものだよ、と言われ、そういうものなのかと、どこかやはり寂しい気持ちもあった。
幼稚園入学。
3月生まれ故、心配していた部分がたくさんあった。
でもそれは少し言い訳で、4月だろうが5月だろうが、結局みんな初めての集団生活に送り込むのだから、心配なのは変わらないと過保護な私は後から気づいた。
送迎組だったので、担任の先生とも直接話すことができ、毎日細かく園での様子を教えてもらえた。
どんな友達と仲良くしているかも分かったり、少しずつ少しずつ成長していく姿も、手にとるようにわかることも増えた。
クラスや、送迎組でのママ友も増えた。
幸い、よく聞く癖の強めなお母さんに会うこともなく、嫌な思いをした記憶もない。
そんな幼稚園生活。
でも仲良くしていたママ友とも、結局定期的に遊んでいた。
今振り替えると、実は我が子が幼稚園に入ってからの1年のほうが、親同士も子供同士も更にぐんと仲良くなっていった濃厚な時間だったように思える。
我が子が幼稚園、ママ友の子がプレ保育に行ってる時間に子供なしで会ったりもした。(第二子はいたが)
我が子が午前保育の日を知らせては、家にきてもらったりした。
休んだ日の習い事の振替えの日を合わせたりした。
隣の駅といえども、自転車では行ける距離なので、遊べる日は私も二人連れて自転車で遊びにいった。
なかなか会えなくなった時の方が、会える時間を見つけて会える努力をするものなのだと後々気づいた。
そして、そんな生活から1年が立とうとしてる。
2020年。
2月下旬。
日本でコロナが流行し始めた。
でもまだ自分事ではないような感覚も残ってた。
「突然の」ではなく、ある意味毎年この時期にある程度の覚悟していた、「予期した」辞令。がやってきた。
今度は、またさらに西へ。「九州に」
転勤は予期していたが、関東から6年前に大阪に転勤になってから、勝手にもうこれ以上西にはいかないと思っていた。
いつの間にか、
私は大阪の6年間の生活で、壮大なジェンガを積み上げていたのだ。
短いながらも、職場で作った縁。
必死で子育てしながら、同士で仲良くなった縁。
まだ1年しか通っていないけれど、我が子の濃厚な時間と成長を教えてくれた慣れ親しんだ幼稚園。
ここまで続けてきた、子供の習い事。
すべてとさよならしなければならなくなった。
初めての転勤で、初めての土地で、一人で(旦那以外)、多分がむしゃらに自分の世界を築き上げていたんだろうなぁと、当時の自分に今さら確認する。
コロナの影響で、幼稚園は2月末で突然の休園。
そのため、幼稚園は、ごく親しいお友だちにしか、転勤の挨拶が出来ないまま、バイバイになった。
そして、更に追い討ちをかけたのは、あの親しくしていたママ友も、東北地方に転勤になったこと。
東北と九州。
隣町に引っ越してから、自転車をこぎ、会いに行ってきたレベルとは、到底かけ離れた距離。
笑ってしまうかもしれないが、そのママ友の転勤を知った瞬間、私は、自分自身が転勤族の妻だという謎の実感を初めて得た。
仲良くしていた友人と、来月からはまったく会えることもなくなる。
毎週のように会っていたのに、この先、何年も会えなくなるかもしれない。
これが転勤族の妻の宿命なのか?
赤ちゃんの頃からのお互いの子供の成長を一緒に見てきた。
子供の話だけではなく、お互いの学生の頃の話や、過去の恋愛話とかもした。
お互いの旦那の不満や愚痴も言い合って、笑いに変えて、心を軽くしてくれた。
彼女は私にとって、率直にいってしまえば、ママ友のというより、心の拠り所になっていた、かなりの重要人物。
ある意味、大切な友人と簡単に言うより、この表現が近しい気がする。
このように、大阪での6年間は、かなり濃密だった。
短いながら仕事もしたし、子供が2人生まれた。
知らないうち、私は自分のなかで、しっかりとしたジェンガを築きあげていた。
それが、いつかは来るものだと多少の予期と覚悟していたものの、すべて崩れたような感覚だ。
九州にきて、崩れたジェンガを目の当たりにし、少し途方に暮れている自分もいる。
また1から作ろう!という気持ちにまだなれない。
6年前に、0の状態で大阪に来たときのような得体の知れないドキドキは、正直ない。
コロナのせいで、家に子供と3人いる生活が多いこともあり、少し後ろ向きな気持ちなのかもしれない。
まだまだ、転勤族の覚悟が足りないのかもしれないな。
さぁて、ここではどんな出会いや、子供の成長が見られるのかな、なんて、早く前向きな覚悟ができるといいけど。
同じく転勤族のお母さんがいらっしゃったら、やるせない思いを抱えているのはここにも一人います。