死ぬ前に夢に出てきた祖母。死んでからもでてきてほしいのに。
先日100歳の祖母が逝去しました。
死ぬ前の入院生活は約2ヶ月ほどで、それまでは割と元気にほぼ介助もなく、自宅で暮らしていました。
年齢からか、おやっ?と思うような言動や行動はたまに起こる事も最近ではありましたが、痴呆とまでは呼ばないレベルのものだとは思っています。
90代の頃、ひ孫たちの風邪がうつって、2回入院したことがあります。
高齢者が入院すると、精神的にも弱くなることがあると聞いたことがあったので、流石に駄目かななんてその度に思いましたが、まさかの復活。
医師に、退院した時の医師には、祖母は身体が強い人だと言われました。
だから私はすっかり油断していたんです。
祖母はそう簡単には死なないんじゃないかって。
そうはいっても身体は着々と年をとっていき、子どもたちが一年で大きく成長するのと反比例したような形で、祖母にとっての一年は肉体的には大きく退化していくのは、たまにしか帰らないから余計顕著に感じたのか、ここ数年は目に見えるように、手に取るように分かりました。
ただそうは言うものの、前述したように祖母は、年齢の割には元気な方で、ほぼ介助なく、暮らしていました。
だから、突然脳梗塞で倒れて意識不明と言われた時は、え?という驚きで呆然とした気持ちで、更にコロナ禍の影響でお見舞いに一切いけないという状況により、いまいち自覚と覚悟がないまま2ヶ月を過ごしてしまいました。
今度はいよいよ駄目だろうかという覚悟と、いやいや今までだって何度か危ない状況はあったのに関わらず復活してきた。今回もまたまさかの復活劇があるのではないかという、決して微々たるものではない淡い期待感。
そして、祖母が亡くなるちょうど1週間前。
夢に祖母がでてきました。
夢の中で、私が祖母のお見舞いに行っていました。
体ごと横向きで寝ている祖母の手を私が握り、声をかけると、目をつむったまま、にこっと笑いました。
もしかしたら、お見舞いに行きたいのに行けないから、私の願望が見させた夢なのかもしれません。
(むしろそう思うほうが自然なのか?)
そして、死ぬ前日は
同居していた母の夢に現れたそうです。
私が1週間前に見た夢は、願望から来る幻だったのかもしれませんが、
母が見た夢は、本当に祖母からの挨拶なんだろうなと思います。
ある程度の覚悟はあったものの、これまでの経験上、本当に死んでしまった事が不本意で、なんとも消化できないまま、お通夜、告別式を終えました。
棺に入れられた祖母の顔は、何だか別人みたいになっていて、でも顔にできた小さないぼの位置や、鼻の下が長い特徴は祖母そのものでした。
火葬した後の遺骨も、100歳のおばあさんの割には、しっかりと残っているように感じました。
すべてが終わって、家に戻ってきた時に、ふとどこにも向けられないような、悲しみが襲ってきました。
波のように、小さいものもあってすぐにひいたり、大きいものも突然やってきて、涙が溢れ出て止められなくなったり。
私は幼い頃から祖母の家にいることが多く、
大学入学までは祖母はいつも近くにいました。
だから幼い頃の記憶にはたいてい傍らには祖母がいました。
そのためか祖母が死んだということは、これまでの私の思い出まで死んでしまったようなそんな寂しさなのです。
祖母が住んでいたこのうちでほとんど過ごした私の記憶が、もう二度とその場所に、その頃に戻れないことを確定してしまうような。
あの笑顔がないということは、もうあの家自体が存在しないような、奇妙な、そしてものすごく苦しい感覚。
私ももういい年だし、祖母の死もある意味では「ようやくお迎いが来た」ものなのかもしれないから、声をあげて、ワーワー泣くこととは違うのかもしれない。
でも、本当にふとしたときに涙が止まらなくなるのです。
おばあちゃんは今一体どこにいるのだろうか。
夢にも毎日でてくれるように頼んでいるのに、誰の夢にもでてきてくれません。
江原啓之さんのラジオが、You Tubeにあがってて、家族の思いが強いほど、故人は夢には現れないと言っていたので、それも何だか妙に納得してしまいました。
元気なうちに、もっと会いにいけばよかった。
身体をさすってあげればよかった。
電話をたくさんすればよかった。
会ったときも、もっとそばにいて話せばよかった。
美味しい手料理をちゃんと作ってあげればよかった。
ひ孫をもっと抱かせてあげればよかった。
「後悔先に立たず」とはこの事です。
祖母の死は、年齢的なものから予想はしていたけれども、結局は覚悟ができていなかったということ。
40近くのおばさんになっても、祖母から見た私は幼い孫で、祖母のことを想うと私自身もそういう立ち位置でフラフラしていて。
そうして今は、幼い子供のようにたまに声をあげて泣きたくなるのです。